先日、東京都が日本国内初となる、“しつけ“と称する家庭内での体罰など暴力や暴言を禁止する「児童虐待防止条例案」を提案したのに対して賛否両論となっているという内容の記事を見つけました。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190227-00010020-abema-soci
この中でも目についたのは戸塚ヨットスクール校長の
「今の(体罰はいけないという風潮の)教育論は間違っている」
という持論です。彼曰く、
「暴力と体罰は全然違う。」
「私は体罰肯定派だ。体罰の定義は、“進歩を目的とした有形力の行使“だ。」
「感情的に体罰をしてはいかんと言うが、体罰は考えてやることではないく、思わず手が出てしまうもので、本能がなさしめている。感情でなく、理性的に体罰をしたらものすごく冷たい。本能は善なり。効果もある。」
との事。
この記事によると、体罰禁止条例には
「とても意義のあること。ぜひ実現してもらいたい」
という意見もある一方、
「行政は家庭内のことに、ここまで干渉すべきではない」
「(言うことを)聞かない時にどうすればいいのか」
「愛情をかけての体罰は100%いけないと言い切れない」
などなど、戸塚氏のみならず一般市民の中にも体罰を容認する姿勢を持つ人が一定数いるようです。
日本では「しつけ」という名目のもとに子供に暴力が振るわれ、その結果子供が命を落としてしまうという事件が後を絶たない中で、それでも体罰を全面的に禁止しようという流れには否定的な人たちの声が目立ちます。
なぜ体罰支持者は今も一定数存在するのか?それは体罰容認派の人たちは
「体罰には一定の教育的効果がある」
と信じているからでしょう。つまり言い換えれば、この人たちの言い分としては
「体罰には正当化の余地がある」
という事です。
本記事ではこの事も踏まえながら、教育における体罰の位置づけはどうあるべきかについて論じていきます。
【体罰における最重要論点】
まず、体罰肯定派であろうと否定派であろうと関係なく、全員が共有するべき認識があります。それは、本当に適切に「体罰はOKかNGか」を判断するためには、次の2つの点を論じる必要があるという事です。
[1] 「体罰」と「子供の健全な成長」の2つには因果関係があるのかどうか
[2] 体罰が及ぼすプラス効果とマイナス効果はトータルで見るとどちらが大きいのか
以下にそれぞれもう少し詳しく見ていきましょう。
【論点1:「体罰」と「子供の健全な成長」の因果関係】
まず最初に、念のため
「因果関係とは何か?」
から見ていきましょう。
因果関係とは、デジタル大辞泉の説明によると、
「2つ以上のものの間に原因と結果の関係がある事」
と定義されています。
例えば、部屋の電気のボタンをONにすると電気がつきますし、OFFにすると電気は消えます。これはちゃんとインフラ環境が整っている限り、100回やろうが200回やろうが何度やっても結果は同じです。ここでは、
「ボタンをONにする」のは「部屋の電気がつく」という結果の原因であり、
「ボタンをONにする」と「部屋の電気がつく」の2つには「因果関係がある」と言えるのです。
「部屋の電気」の例ほど百発百中ではなくとも、「ほぼ因果関係があるとみなしてよさそう」な例もあります。
例えば、漫才日本一を決めるM1で優勝すると、これまで全然売れていなかった芸人でも急にテレビ番組の出演オファーが殺到します。もしかしたらM1で優勝しても優勝前と比べて大して売れないままという芸人さんも一部いるのかもしれませんが、全体的な傾向としては、ほぼみんな優勝後はオファーが大幅に増えると言えるでしょう。この場合も、
「M1で優勝する」と「番組出演オファーが殺到する」の2つには「因果関係がある」とみなす事ができます。
さて、因果関係の定義を確認した所で本題に戻りましょう。
今回の体罰の件でまず第一に論点とすべきなのは、
「体罰」と「子供の健全な成長」の2つには因果関係があるのかどうか?
という事です。
ここでもし因果関係があるのなら「体罰には一定の教育効果がある」という事になりますし、因果関係がないのなら「体罰は無意味」という事になります。
【論点1‐1:筆者の実際の体験】
では、体罰には「教育的効果」が本当にあるのか考えていきましょう。ここでは、僕自身の実際の体験をもとにケーススタディをしていこうと思います。
僕は小学校6年生の時、少なくとも半年はイジメられていました。クラスに「まさにイジメっ子」というタイプの子がおり、
・悪口
・威圧的態度
・叩く、蹴るなどの暴力
・仲間外れ
・クラスの他の大勢の前で笑い者にしてバカにする
などなど、「イジメ」となるものはほぼ一通り受けました。
肉体的暴力ではもっと陰湿なものもあり、例えば席替えをしてそいつが僕のすぐ後ろの席になった時は、僕の首をシャーペンで何度も刺してきた事もありました。痛いんだな、これが。
クラスはこいつ以外にも問題児は複数おり、全体的に荒れていました(ていうかこの小学校が全体的に荒れてた)。先生の事も完全に舐めてかかっているクソガキで、先生に怒られた所で無駄。まともな話し合いの通用する相手ではありませんでした。
そんなある日、僕はそいつに対していつもよりも反抗的な態度を取りました。するとそいつはそれが気に入らず、僕を殴ってきました。1発殴られ、2発目のパンチも来たのでそれはキャッチ。もう片方の手で3発目のパンチも来たのでそれもキャッチ。こうして僕は奴と取っ組み合いをする形になりました。
幸い僕の方がだいぶ腕力があったので、半年分の陰湿なイジメの恨みも込めてそいつの両手を捻り、さらに思い切り握り潰してやりました。このクソガキは苦痛に顔を歪め、泣きながら教室の外へ逃げていきました。
後になってわかったのですが、僕の反撃の結果、こいつの左手の指の骨にヒビが入っていたそうです。
翌日以降はコイツからのイジメはピタリと止みました。相手の立場に立って相手を思いやる気持ちのない、話し合いも通じないバカでさえ、散々僕に続けてきたイジメを止めたのです。
ここまでを聞くと、
「ほれみろ、口で言ってわからんバカは痛めつけて教えなきゃわからんのだ。やっぱ体罰は必要!」
と思う人もいるでしょう。でもちょっと待ってください。この話には続きがあるのです。
実は当時、このクソガキにイジメられていたのは僕だけではなく、他にも被害者が何人もいました。で、僕に亀裂骨折させられた後でも、僕以外の子に対してのイジメはなくなっていなかったそうなのです。
これは一体何を意味するのかというと、
「悪い事をした奴を痛めつけたのに教育的効果はなかった」
という事です。
もしこれで教育的効果があったのだとしたら、奴はこの時点で自分のやっていた醜い行為を見直し、僕以外の子に対するイジメも止めていたでしょう。でも現実はそうではない。
僕が奴に負わせた亀裂骨折は、たしかに僕へのイジメを止めさせるのには抜群の効果がありました。でもそれは、ただ単にこのクソガキが僕の方が実はコイツより強かったのがわかったからであり、
「自分より強い奴は狙わないようにしよう」
とターゲットから外したにすぎません。相手に肉体的ダメージを与えるのは、
「お前より俺の方が強いんだぞ」
と力関係を思い知らせるのには非常に有効ですが、それ自体に教育的効果があるのかというと、非常に疑わしいのです。
【論点1‐2:体罰に感謝する人たち】
体罰関連のネット記事を見ると、必ずといっていいほど次のようなコメントを見かけます。
「やっぱ口で言ってわからん奴には体罰は必要だと思う。自分自身、子供の頃は悪ガキだったし、体罰で躾けられてそこで初めて『痛み』を知った。痛みを知ったからこそ悪い事をしたのだと反省できたし、自分の問題行動を直せた。今でもあの時自分を叩いて叱ってくれた大人には感謝している。」
これは実際に体罰を受けた人による体罰擁護ですね。
ここでも、
「ほれみろ、体罰をされた本人が『ためになった』と言っているし、感謝すらしているじゃないか。やっぱ体罰は必要!」
と結論に急ぐ人が出てきそうですが、ちょっと待ってください。これ、本当に
「体罰」→「子供の健全な成長」
の因果関係は成立しているのでしょうか?
この「体罰を受けて自分は成長した」と主張する人、もし体罰を受けなかったとしたら本当に問題行動は直らなかったままだったのでしょうか?
実はこれ、現代科学では証明のしようがないのです。
この人の
「体罰を受けたからこそ自分は成長できた」
「体罰を受けなかったら自分は成長しなかった」
という主張を本当に証明するには、タイムマシンでも使ってこの人の過去に行き、「体罰を受けなかったらどうなっていたか」を実際に検証しなければ確認のしようがないからです。
ここでも、「体罰」→「子供の健全な成長」という因果関係は確認できません。
【論点1‐3:「昔は良かった」は本当か?】
体罰容認派、特にその中でも年配の方々には、次のような主張をする人がよくいます。
「昔はね、体罰なんて当たり前だったんだよ。でも私はそれが悪い事だとは思わない。なぜなら、昔の方がそのやり方で今より躾がしっかりしてたからだ。実際、今の若者はモラルが低下してるだろう?今の方が物騒な世の中になっているだろう?それは体罰がなくなったからなんだよ。悪い事をしても痛い目に遭わないから、我慢を知らず、社会や人生を舐めてかかってるんだ。」
いわゆる「昔は良かった論」ですね。
これ、まずそもそも論として、
「本当に昔は良かったのか?」
をよく考える必要があります。
ちょっと以下のデータを見てください。日本における殺人事件の年間被害者数の推移です。
日本において、殺人事件は減る一方です。
1950~1960年の間、年間の殺人被害者数は2000人前後であるのに対し、2012年時点では400人を切っています。
テレビの報道の仕方で物騒な世の中になったみたいなイメージがあるかもしれませんが、実際にはその逆で、どんどん平和な世の中になっているのですね。
なんでこんなに現実とイメージが違うのかというと、昔は殺人なんて当たり前すぎて逆に報道されなかったのに対し、今は殺人は珍しいから積極的に報道されるようになったのが原因ではないでしょうか?たくさん報道されてるから「人殺しが増えている」というイメージにつながるというわけです。
「昔の方がモラルのレベルが高かった」
というのが本当なのだとしたら、なぜ「モラルのある」はずの昔の方がこんなにも圧倒的に人殺しが多いのでしょうか?その辺りは疑問に思えてきませんか?
それから、昔は日本の学校では
「お礼参り」
というのが行われていました。
在学中に教師を殴ると追い出されるので卒業してから殴り込みに行く、というものです。在学中に体罰を受けた事や、罵られて人格否定をされたりした事などに恨みを持ち、
「先生よぉ~、今まで散々かわいがってくれてありがとよぉ。たっぷりお礼してやんよぉ!!!」
という感じでぶん殴るのですね。
ちなみに、僕が日本で教員をやっていたのは2013年の話ですが、この頃はもう「お礼回り」なんて聞きませんでした。30年以上教員をやっているベテランの先生に話を聞いても、
「長年教育現場にいて感じる事なんだけど、最近の子は本当に落ち着いてきている。昔は本当にガラが悪くて、実際治安も悪かったからね」
と仰っていました。
ここでも、
「体罰によって子供が健全に成長する」という因果関係は成立しておらず、むしろ真逆の現象が起こっている事がわかります。
【論点2:体罰はトータルで見てプラスなのかマイナスなのか】
はい、ここまでで、
「体罰によって子供が健全に成長する」という因果関係を証明する事実は、少なくとも上記の体罰肯定派の主張に関連する事柄を検証した分には見当たらないという事がわかりました。
ここでもう1つ考えるべきなのが、
「体罰における全体的なプラスマイナスの計算」
です。ここでいう
「全体的なプラスマイナス」
とは何か?少し例を出して考えてみましょう。
例えば、パチンコが大好きな人がいたとします。毎日朝から晩までパチンコに入り浸りです。
ある日このパチンコ好きな人は、誇らしげにこう言いました。
「見ろ!今日は5万円儲かったぞ!やっぱりパチンコって最高じゃないか!」
でもこの人、5万円勝つまでに既に100万円を費やしていました。
「5万円勝った!」という部分だけを見れば、たしかにパチンコって金が入るし夢があると思うかもしれません。でも、出費で100万円かかっていたら、トータルで見れば
95万円の赤字
なのです。
体罰もこれと同じです。
上記の論点1‐2の「体罰に感謝している人」は、体罰を受けた本人が「おかげでいろいろ学べた」と言っているので、この人のこの部分だけを見てみたら
「迅速に問題行動が直った」
みたいですし、大したマイナスではないのかもしれません。
でもその一方で、大したプラスでもないとも言えます。なぜなら、上記でも既に述べたように、この人本人が「体罰を受けてよかった」と証言しているからといって、体罰がなければこの人の問題行動は直らなかったままだったはずだという証明にはならず、別に体罰がなくても直っていたかもしれないからです。
それに、世の中は体罰に感謝している人たちばかりではありません。むしろ体罰によって心身ともに深い傷を負うケースは多々ありますし、現実に死亡事故だって相次いでいます。体育会系の部活でも体罰によって怪我をさせられる選手は毎年大勢いますし、職場で体罰を含めたパワハラを行う上司だっています。
パチンコのプロが「そんな金の無駄遣いは止めなさい!」と怒られないのは、パチンコによる収入が出費を大幅に上回っており、トータルで明らかにプラスになっているからです。それと同じように、もし仮に体罰が正当化されるとしたら、体罰のプラス効果がマイナス効果を大幅に上回り、トータルでも明らかなプラスとなっていなければならないのです。
でも、現実にはトータルで明らかにマイナスではないですか?
どこをどう見ればプラスがマイナスを上回っているのでしょうか?
【結論として、体罰は禁止されるべきか?】
はい、ではおさらいです。
体罰が肯定されるためには、
[1] 「体罰は子供の健全な成長につながる」という因果関係が確認されなければならない
[2] 体罰のプラス効果がマイナス効果を大幅に上回り、全体としてプラスの効果をもたらさなければならない
という2つの条件を満たす必要があるんでしたね。
ここまで読めばおわかりかと思いますが、
どっちも満たされていませんね。
という事は、
どう考えても体罰は禁止って結論になりますよね。
日本において体罰はいまだに市民の声が賛成派と反対派に分かれており、一見どちらの言い分にも一理ありのように見えるかもしれません。しかし、
「体罰が正当化されるとしたら、それはどのような場合か?」
を冷静に1ステップずつ丁寧に検証すると、体罰を正当化するためのロジックには相当な無理がある事が見えてきます。
これは何も体罰の問題に限らず、社会に蔓延するあらゆる問題に共通する事です。
「世に溢れている情報の中のどれが正しいのか?」
を常に考え、正しい情報を選び、間違った情報は切り捨てる。根拠の曖昧な情報は根拠が明らかになるまで容易に結論を出さない。これこそが現代の情報社会で最も求められる力ではないかと僕は思います。