フィンランド式教育が日本では機能しない理由

日本では、北欧、特にフィンランドの事に関してメディアで取り上げられる場合、その教育制度が注目される事が多い印象があります。

「フィンランドは宿題やテストがないのに学力世界一だ!」 
「フィンランドの学校には校則がない!」 
「フィンランドでは教員資格は大学院までいかないと取れない。だから教員の質が高いのだ!」

といった謳い文句が踊るネット記事やテレビ番組の数々。これらの主張は最終的には

「だから日本もフィンランドみたいな教育をすれば変わるはず!フィンランドの教育制度を日本にも取り入れよ!」

みたいな方向性に持っていきたいのかな、と感じます。

フィンランドの教育制度において指摘されている「優れている点」に関しては全くの嘘ではなく、ある程度は本当なのですが、ちょっと大げさに報道されすぎている所や、背景が省略されているがためにやや誤解されやすい部分もあるかなという印象もあるので、今回の記事ではその辺の実態について書いていきたいと思います。

さて、先日こんなビデオをYoutubeで見つけました。アメリカの大学で行われた教育関連の講義で、講演者はPasi Sahlbergという、フィンランドの教育政策における重鎮です。

そして、僕自身の日頃から考えている事とこの動画を見た感想を併せると、

「日本にフィンランドの教育制度を取り入れたら機能するか?」

という問に対する僕の見解は

「日本では無理」

です。

なぜそう考えるのかを、動画の要所で指摘されている事を引用しながら、最後に僕の所感も添えて締めくくりたいと思います。


フィンランドはナンバーワンになろうとした事などない(10:28~14:27)

Pasi Sahlberg氏:

フィンランドの教育に関して興味深い事の1つは、フィンランドは学力で世界一を目指した事などない、という事です。「フィンランドは厳しい競争を勝ち抜くアグレッシブな教育政策を実施してきたに違いない」などと考える人も多くいるようですが、我々が成功した大きな要因として挙げられるのは、フィンランドは人口600万人にも満たない小国だからです。比較的単一民族的な性質を持ち、土地柄的にもいつも寒くて暗い所ですし、国の教育に何か問題があっても改革しやすいんですね。

一方で、私が様々な国を訪れ、各国の教育大臣の教育政策における目標を聞くと、「世界一になる事!」だとか「トップ5位内に入る事」といった答えばかりが耳に入ってくるんです。アメリカだってそうでしょ?アメリカが「我々は世界第12位を目指します!」みたいな事を言ってる所なんか見た事ないですもん。もちろんナンバーワンを目指してらっしゃるでしょ?でもそれこそが問題なんですよ。

ナンバーワンになるのだという前提で教育をしたら、必然的に競争になるでしょう?必然的にいかにテストで点を取るかという方針になってくるでしょう?競争をする以上は自分がどこにランクされるのか知らなければいけませんからね。

でもフィンランドは違う。過去40年もの間、フィンランドはみんなに平等に良質な教育機会を与えるにはどうすればいいかという問題に常に取り組んできました。でもこれは元々、アメリカの考え方だったのですよ。ジェファーソンの時代はそれが理想だったはずでしょう?

重ねて申し上げたいのは、フィンランドはグローバル社会の競争で「勝ち抜く事」になんて興味はなかったという事です。我々にとって、競争して勝ちたいと思う相手がいるとしたらそれはスウェーデンだけです。

ここでちょっと面白いエピソードがあるので紹介しましょう。各国の大臣が集まるミーティングがあったのですが、そこでスウェーデンの大臣は「いかにしてスウェーデンがOECDの国際学力テストで世界一になるか」についてプレゼンしていたのですが、そこでフィンランドの大臣はこのようにコメントしました。

「すばらしいプレゼンでしたね。ちなみに、私たちフィンランドの目標はもっと控えめなものです。フィンランドとしては、スウェーデンより上でありさえすればそれで十分なので」

皮肉にも、数年後にはフィンランドが世界一となる事でこれが実現してしまうんですね。


画一的な教育などやってはならない。個に合わせるべき。(29:10~30:37)

Pasi Sahlberg氏:

次にお話したいのは、「画一的な教育」についてです。多くの国では、どの子供にも同じ内容の者を同じ方法で学ばせようとしていませんか?そしてその画一的な教育方針の枠組みの中でハードルを上げれば、自然と全体的に成果も上がると考えているのでしょう。

しかし、フィンランドではこれはセオリー違反です。フィンランドではどれもこれも同じように「画一化する」のではなく、「個に合わせる事」が求められるからです。国の定める「大まかな枠組み」はありますが、細かい部分は個に合わせて学校単位で組み立てる。さらに、生徒1人1人が「自分だけのスタディプラン」というものを持っています。このように画一化されていない教育システムにおいては、ある生徒を他の生徒と比べる事に大した意味などありません。比べるとしたら、生徒が自分自身を過去や現在や未来の自分と比べるという事です。我々は、画一化された教育よりも個々の創造性を信じていますから。


教育改革は学校や先生だけの問題ではなく、社会全体規模で考えるもの(1:15:14~1:16:43)

質疑応答で、

「アメリカは、社会全体で子供の貧困、高い殺人事件発生率、10代の望まぬ妊娠、薬物問題、虐待問題、精神的に病んだ子供たちなどの様々な問題を抱えています。その一方で、メディアで取り上げられるのは何かあった時の教師や学校の責任問題ばかり。それに対し、フィンランドは(教育システム以前に)機会の平等をはじめ、公正な社会であるように思えます。私はアメリカでこういった社会問題がそれほど触れられないままに『教育の質が!教育の質が!』などと言われる事に違和感を覚えるのですが、こういった点に関してご意見をいただけますでしょうか。」

と質問された際の

Pasi Sahlberg氏:

たしかにそういった問題を抜きにして教育問題を語る事はできません。国の教育をよくするためには、まずはその国が抱えている諸々の社会問題を改善する所から始めなければならないのです。

私の持つ印象としては、特にアメリカみたいな国では「教育改革」を唱える人たちは「問題は教師にある」と叫んでばかり。この人たちは「質のいい先生」を揃えればそれで教育問題が全て解決するものだと思い込んでいます。

しかし様々な調査結果がこれは間違いであると証明しています。学校や先生だけの問題ではないのです。教育改革をしたければ、その根本となる政治やその他の部分から直していかなければいけません。これはアメリカだけでなく、他のどの国にも言える事です。


動画内容に関する所感とフィンランド式教育が日本で機能しない理由

僕は理想論としては、このフィンランド式の教育には全面的に賛成です。教育とか学力とかいうものは本来「点数」とか「数値」で表すのには無理があるものであり、従って「世界一」とか順位を求めるのも本質的にはナンセンスな事。「性格が良い/悪い」とかも数値化できないですよね。性格の良し悪しは確かにあるけど、それを数値にしてランキングにできるかは別の話。「学力」や「教育の質」も本来はこれと同じで、元々は数値にはできない。にもかかわらずそれを無理やり数値化しているわけですね。

だから本来なら「学力で世界一」なんか目指す必要はないし、個々に合わせて子供1人1人が必要な環境を整えるのがよい。

でもPasi Sahlberg氏も話していたように、フィンランドでそんな教育が可能なのはそもそも人口が600万人にも満たない小国だからであり、国のサイズが違う。日本は国土面積はフィンランドとそれほど変わりませんが、人口は1億を超えており、フィンランドの約20倍です。

フィンランドでは少人数学級が基本ですが、日本でこれを公教育でやるのは非現実的です。僕も一応元高校の教員ですが、教務部が頑張って「この科目に関してはクラスを半分に分けて少人数化しました」とかいってても、それでも1クラス20人とかはいました。フィンランド的な感覚では1クラス20人でも「多い」のです。

日本では人口の少ない地域とかでもない限り、1クラス40人とか普通です。これだけの人数を1人の教員で面倒見ようと思ったら、同じ内容を同じように教える「画一的な教育」をせざるをえなくなってきます。

そして画一的な教育が前提となるので、テストも穴埋めとか選択問題とか、もっと酷い時はマークシートみたいな機械的なものが主流となり、そういったテストの点数を基準に生徒を縦に並べるという「人間味の無い」システムとの相性が良くなる。かくして、「画一的教育」の確固たる地位の完成です。

僕は実際に日本の高校で教員になった時、なんとかして少しでも「フィンランド式な」「個々に合わせた」スタイルを取り入れられないかと試してはみました。例えば僕は英語科の教員だったので、ただ単語を暗記するだけでなくて、覚えた新出単語を使って自分で好きな文を作らせてみるとか。

真面目に取り組んでくれる生徒も一定数以上いるものの、今度はその課題をチェックする側の僕がヤバい事になるのです。例えば40人のクラスを2つ受け持ち、「覚えた新しい単語を使ってオリジナルの文を2つ作ってみよう」という課題を出しただけでも、採点する文の数は160にも及びます。

これを目で見て文法間違いや綴り間違いだけでなくアイディアそのものが面白いかとかまで見て個別にコメント入れるとなったら、それだけでメッチャ時間かかるわけです。

更に、日本の教員から「生徒1人1人に個別に丁寧に対応する時間」を奪うのは、このように単純に生徒数が多いという事だけではありません。以前書いた記事

でも紹介しましたが、授業とは関係ない仕事に時間を取られ過ぎてそれだけでも既にサービス残業が余裕で月100時間超えるような世界なのです。ここから更にフィンランド並みに生徒1人1人に丁寧な時間を使っていたら月のサビ残200時間でもいくのではないか。いや、ていうか、実際サビ残200時間超えてて過労で倒れる先生もいらっしゃいます。全然珍しくないです。

ここで動画でも触れられていた

「教育改革は学校や先生だけの問題ではなく、社会全体規模で考えるもの」

という問題が出てきます。

「教育の質を上げたければ、『教員の質を上げろ』とか文句つける前に日本社会全体にはびこってる劣悪な労働環境の問題をなんとかせい。こんな環境でマトモに仕事なんかできるか」

という事です。Pasi Sahlberg氏は動画内で

「国の教育をよくするためには、まずはその国が抱えている諸々の社会問題を改善する所から始めなければならないのです。」

「『教育改革』を唱える人たちは『問題は教師にある』と叫んでばかり。この人たちは『質のいい先生』を揃えればそれで教育問題が全て解決するものだと思い込んでいます。」

と言っていますが、これに尽きる。

教育というのは、社会を構成する要素の一部。まず最初にマトモな社会基盤が必要で、その上に乗っかる形で教育が来る。それができて初めてマトモな教育システムとして機能する。

この動画では日本もチョロっと登場してて、一応教育において優秀な国の1つって事になってますが、今の日本の公教育は、教員さん1人1人の良心のおかげでなんとか首の皮一枚でつながってるってトコです。まぁ、たまに教員の不祥事とかもあるけど。最近も教員による教員イジメのニュースありましたねー。神戸の激辛カレーのやつ。僕も学年360人分のテストの採点を1人でやらされるとか、もうちょいマイルドなバージョンなイジメなら受けましたけど。

僕の同期の話では全体的に先生たちの人間関係のいい学校もあるのですが、それでもやっぱりそこにいる「人」がいいだけであり、システム的にはクソなんですよねー。校長よりもっと上の連中である教育委員会とか文部科学省が無能なんだからどうしようもない。


日本の教育の課題:歪みのある社会で成果を出すという無理ゲーをどう攻略するか?

さて、見出しにもある通り、日本で教育を良くするのは基本的に「無理ゲー」です。なんてったって、「教育を良くするためにはまずマトモな社会構造でなければならない」の法則を余裕で破っちゃってるんだから。

自国民である日本人をブラック企業で搾取するだけでは飽きたらず、外国人を呼び込んでさらなる低賃金で搾取しようとウハウハな経団連と仲良くしてる自民党が政権に居座っているという体たらくですから、日本の社会の歪みそのものは改善されないという前提でものを考えた方がよいでしょう。

僕はこれからは「教育系ユーチューバー」の時代が来るのではないかなーと見ています。政府がやるべき仕事を何もやんないなら、市民が個人レベルでやっちゃえと。もう今どきYoutubeなんてほぼ誰でも見られるし、大学みたいにバカ高い授業料を払わなくていいから、教育系ユーチューバーがいろんな分野でたくさん集まれば貧富の差なく皆が平等に教育を受けられる。大卒資格は取れなくても、その辺で遊んでただけの大学生より学力的にはよっぽど力あるぞという人たちも出てくる。

僕自身、日本にいる間にYoutubeとかその他ネット上のサービスを駆使してスウェーデン語めっさ勉強しましたからねー。そのおかげで語学学校に通わなくても自力でスウェーデン語で大学の授業を受けられるまでになったという。

なので、Youtubeをもっと「真面目なツール」として見てくれる人が増えればなーと思っています。既にその辺の大学の授業よりよっぽど面白くて勉強になる動画出してるYoutuberさんけっこういるし、今後はさらに増えていくと思います。やってる人は既にやってるのだー。

ちなみに、僕も語学系の分野で一応「教育系Youtuber」やってます。教員は辞めたけど、教える事自体は好きですからね。

『タンクトップ語学マスター』

という、キャラ設定はふざけているように見えるかもですが、内容は勉強になるものであると自信を持って言えます。皆さんもぜひぜひご視聴くださいな~(^^)

↓↓↓ 僕のYoutubeチャンネル ↓↓↓

https://www.youtube.com/channel/UCnd3bzuitCVObfD8ybyTawQ