Page 43:道徳の教科書の『星野君の二塁打』が突っ込み所満載な件について

最近語学系の記事を書いていて、しばらくは毎週語学系でいこうかなと思っていたのですが、今回は全く違うトピックで記事を書こうと思います。

キッカケは、5日前の月曜日にネットで配信された『教員たちも思考停止に…「道徳」で混乱する教育現場』という記事(下記URL)でした。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180413-00000011-sasahi-soci 

小学校や中学校では「道徳」の時間というものが以前からありましたが、この4月に大きな変化がありました。「道徳」が正式に「教科」として扱われるようになり、「大変よくできました」「もう少し頑張りましょう」みたいに、国語や英語や数学などと同じように「評価」がつけられるようになったという事です。

そして、中でも特に話題になっているのが、この道徳の授業の教材として使われている『星野君の二塁打』というお話です。以下に、このお話のあらすじと、このお話の何が道徳の教材として問題なのかを書いていきます。

 

《コンテンツ》
・『星野君の二塁打』のあらすじ
・問題点その1…野球が題材であるという事
・問題点その2…多様性の無視
・問題点その3…道徳的な線引きが曖昧である
・まとめ

 

【『星野君の二塁打』のあらすじ】

小学校で行われる「道徳」の教科書なので元々そんなに長いお話ではないのですが、前述のネット配信された記事に一番の問題点となる部分が要約されていましたので、それを引用します。

バッターボックスに立った星野君に、監督が出したのはバントのサイン。しかし、打てそうな予感がして反射的にバットを振り、打球は伸びて二塁打となる。この一打がチームを勝利に導き、選手権大会出場を決めた。だが翌日、監督は選手を集めて重々しい口調で語り始める。チームの作戦として決めたことは絶対に守ってほしいという監督と選手間の約束を持ち出し、みんなの前で星野君の行動を咎める。「いくら結果がよかったからといって、約束を破ったことには変わりはないんだ」「ぎせいの精神の分からない人間は、社会へ出たって、社会をよくすることなんか、とてもできないんだよ」などと語り、星野君の大会への出場禁止を告げるシーンが展開する。

もしかしたら、大人になっても野球のルールを詳しく知らないという人もいらっしゃるかもしれないので、このあらすじをさらに簡略化してみます。

要するにこういう事です。「選手は監督の命令に絶対に従うものだ」という前提で今までやってきたのに、いざ大事な試合になったら星野君という子が監督が指示した作戦に従わず、その結果チームは試合に勝ってしまいました。で、後で監督が「結果的には勝ったとはいえ、試合中に命令に従わないとはどういう事か」と怒っている、というわけです。

ちなみに、この題材で書かれた別のブログ記事には話の内容が全部載せられているので、リンクを貼っておきます。興味のある人は下記のリンクから読んでみてください。
https://blogs.yahoo.co.jp/kirigamiya_greeny/15082808.html 

 

【問題点その1…野球が題材であるという事】

このお話、野球少年のみに読ませるのであればなくはないのかもしれませんが、「小学校の道徳の教科書のお話」として採用するのはあまりにもお粗末でしょう。

野球はたしかに日本のスポーツ界ではサッカーと並んで最も人気の高い競技の1つですが、だからといって日本人全員が野球が好きなわけではないし、全員がルールをきちんと把握しているわけではありません。僕は物心ついた時からスポーツ少年でしたが、野球なんて一切興味なかったし、たしか僕が野球のルールをまともに覚えたのは高校生ぐらいからでした。

「野球のルールぐらい知っとけ。常識だろ」とか思う野球ファンがいるかもしれませんが、関心がない人からしてみたらね、自分には関係ないしどうでもいいし覚える気にならないんですよ。立場を逆にしていえば、おそらく競技としてのボウリングに興味のないであろうあなたからすれば、「12ゲームの合計得点が同じの場合、3ゲーム毎のシリーズトータルの差が少ない方の選手を上位とする」なんていうボウリングの公認試合のルールを聞いても、「んなもん知らんがな。興味ねーよ」って思うはずでしょう?

ましてや、野球どころかスポーツそのものに興味がない小学生の女の子とかだったら、「送りバント」とか「二塁打」とか言っても何のことかさっぱりわからず、『星野君の二塁打』の話の趣旨そのものを理解させるだけでも一手間なのでは?そんなものをわざわざ「道徳の教材のテーマ」として選ぶのはその時点で教材として不適切なのでは?と疑問を感じてしまいます。

 

【問題点その2…多様性の無視】

そして、これはネット配信されたニュースのコメント欄でも他の人が書いていたブログでも指摘されていた事なのですが、このお話は「多様な考え方を潰す軍隊的教育」であるとして批判コメントが集まっています。

たしかに「古き良き時代」などと呼ばれた昔は、スポーツでも教室内の勉強でも先生や監督は絶対であり、「上の者の命令に従う事」が全てでした。21世紀に入って20年近くが経過した現在ですら、特に昔からの伝統を重んじるスポーツの強豪校においては未だにこのような「軍隊式」な考え方が根強く残っている所も少なからずあります。

例えばこれは僕が以前日本で教員をやっていた時に聞いた話です。僕が勤務していた学校には非常に野球に入れ込んでいる先生がいて、その先生は「いつか自分も甲子園に行けるチームを作る!」と張り切っていました。この先生は暇さえあれば様々な野球の強豪校に視察に出向き、それぞれの学校の特徴を事細かに調べていました。そしてこの先生の情報によると、とんでもない「教育方針」の野球部がありました。

その高校の野球部は全寮制で、野球部員たちは携帯電話などの外との連絡手段は一切許されず、新聞すらも読めなかったそうです。外出もできないので、文字通り物理的にも精神的にも完全に隔離された閉鎖空間で四六時中過ごす事になります。このような隔離空間で、野球部員たちは、監督が

「いいか、カラスとは白いものだ」

と一声言えば、実際にはいくらカラスが黒かろうと、「カラスは白だ」と本気で信じ込むほどのレベルで、「監督の言う事を絶対に聞く」ように徹底的に教え込まれます。ここまでくると、もはや「教祖様バンザイ\(^o^)/」のカルト宗教の洗脳と大して変わらない気もしますね。

ちなみに、これと似たような元野球部のエピソードが『水曜日のダウンタウン』でも紹介されています。

『PL学園野球部この世の地獄説』

で検索すると動画が出てきますので、興味のある人はこちらも見てみるとよいかと思います。

このような「洗脳レベル」の指導方針がとられているスポーツのチームが日本には実際に存在する一方で、最近では選手も監督に意見が言えたり、その場の自分の判断で行動できる「風通しのいいチーム」も出てくるようになりました。実際、もう既に今から10年ぐらい前の2008年の時点で、当時プロ野球チームの西武ライオンズの監督を務め、チームを日本一に導いた渡辺久信さんが

『寛容力 ~怒らないから選手は伸びる~』

という本を出し、

「上から押さえつけるのではなく、相手と同じ目線に立って指導する事」

の大切さを説いています。

他にも、先ほど紹介した別の人のブログ(下記リンク)では、
https://blogs.yahoo.co.jp/kirigamiya_greeny/15082808.html 

サッカー漫画『キャプテン翼』のこんなシーンが紹介されています。

「でもひとりだけ作戦を無視した奴がいたな。つばさだ。おれもよく監督の指示を無視した事があったがな。そしてそれが監督の立てた作戦よりうまくいった事もある。今回の翼みたいにな。翼!サッカーは自分の考えでプレイするスポーツだ!これからも自分の判断は大切にしてもいいんだぞ!」

このように、日本のスポーツ界には大きく分けて

・絶対服従の軍隊スタイル
・個々を尊重する民主主義スタイル

の2つのスタイルが存在し、どちらのスタイルの部活の学校に入るのも生徒の意思次第です。民主主義スタイルで力をつけたい生徒もいれば、敢えて軍隊スタイルの環境に飛び込む生徒もいます。

にもかかわらず、『星野君の二塁打』のお話では、軍隊スタイルではないものを一方的に「道徳的に間違ったもの」と決めつけています。これはあまりにも傲慢なものの考え方であり、こんなものが平然と「道徳の教材」として採用されるあたりに文部科学省の無能ぶりが垣間見えますし、こんなものを使って授業をする事を強要されている現場の教員たちも気の毒です。

 

【問題点その3…道徳的な線引きが曖昧である】

なぜこのような一方的で押しつけがましい内容の教科書がまかり通るのか?それは、そもそもどこまでが道徳的にOKで、どこからが道徳的に問題なのかの線引きをロクにやらずにこういう話を書いたり採用したりするからこうなるのでしょう。

一般的に、「上からの指示に納得できず、従いたくない時」の行動パターンには3通りあります。

[1] 渋々ながらも従う
[2] どちらかがもう片方の言い分に納得するか、双方にとって許容範囲である妥協案が出るまで話し合う
[3] 指示に従わず、自分が正しいと思った事をやる

『星野君の二塁打』のお話では、星野君がとった行動は[3]で、正しいとされているのは[1] ですね。星野君は自分の考えを言って反論しようとしましたが、話し合いの体をなしていなかったので、[2]ではないですね。

僕らが住む現実の世界でも、特に日本においては[1]が1番多いと思います。僕だってありますよ。不本意ながらも

「上からの命令だから」
「そういう事になっていて、みんなそれに従っているから」

仕方なくそれに従い、自分の考えに反した事をやった事は何度もあります。学生時代の部活でも、社会人になってからの職場でもです。

でも、今の世の中、[2][3]のパターンだってあるはずなんですよ。

先述のように、最近はスポーツチームにしても会社にしても、立場の弱い人間でも発言がしやすい

「風通しのよい組織」

というのが出てくるようになったから昔と比べれば[2]はやりやすくなっています。

また、最近はいじめとかパワハラとかに対する市民の目が厳しくなってきていますから、場合によっては[3]のパターンを選んだって全然問題ない事だってあります。

例えば、野球部の監督(または先輩)が1年生の野球部員に暴力をふるい、その結果怪我をさせてしまったとします。(←よくある話です)

その時に、監督(または先輩)から

「今日あった事は誰にも言うな。『その怪我はどうしたの?』とか聞かれても、『転びました』とか答えてごまかせ。いいな?約束だぞ?俺との約束、守れるよな?」

と言われ、1年生部員は

「は、はい。誰にも言いません。必ず約束を守ります」

とその場では約束したものの、後で言いつけを破って学校に報告し、暴力事件が明るみになり監督(または先輩)が処罰される事になったとします。

この「約束を破った」1年生部員、道徳的に間違ってますかね?むしろ正しい事をしたと僕は思いますよ。

このように、何が道徳的に正しくて何が道徳的に間違っているかなんて、その時その時の状況によって変わるのです。それを無視して、単純に

「上の命令に逆らった」

だけで

「道徳的にけしからん」

と非難するのは、[1]~[3]の場合分けも、道徳の線引きもロクにできていない事を意味します。そして、意図的にやったのかどうかにかかわらず、[2][3]のパターンは一切紹介せず、いかなる場合も上記の[1]の行動パターンのみをとるように強制しているような内容の『星野君の二塁打』なんぞを「道徳の教材」として採用して現場の教員使わせている文部科学省は、思慮が浅いと言わざるを得ないのです。

 

【まとめ】

ここまでいろいろ書いてきましたが、上記に挙げた数々の点を考慮に入れると、そもそも「道徳」というものを国語や英語や数学のように教科として扱って成績をつけるという行為がいかに不適切なものであるかがわかるでしょう。

「何が正しくて何が間違っているか」なんて、常に画一的な正しい答えがあるはずもありません。ましてや、文部科学省は

「画一的な教育から脱却し、自ら考える力を養う」

みたいな事を言ってませんでしたっけ?今回の道徳の教科科は、その考えに逆行するものであり、口で言っている事と実際にやっている事が矛盾しちゃいませんかね?

ちなみに、僕はもう教員を辞めていますが、もし自分が今現場の小学校の教員で、こういう教材を使って「道徳の授業をやれ」とか言われたらどうするだろうかと、ちょっと考えてみました。

一応は上からの命令だし、たぶん言われた通りに『星野君の二塁打』の教材を使って、

「納得いかなくても上からの指示には従わなければいけない事もある」

と生徒に教えるんでしょうかね~。

でも、その後でさっきみたいに、「でも後日、監督がささいな事をきっかけに星野君に暴力を振るいました。口止めはされたものの、星野君はそれを無視して学校に報告した結果、監督は校長に怒られました」みたいな続編を自分で勝手に作って、[1]以外のパターンもあるんですよ~ってな事をやるかもしれませんね~。

そうなった場合、僕のオリジナルの『星野君の二塁打』の続編のタイトル、どうしましょ。

『監督の鉄拳制裁』

とか、いいかもしれないですね(笑)